在家のお坊さんのつぶやき

在家のお坊さんが、法務や生活体験をもとにしたつぶやき、タイの面白い情報、本山で学んだ「仏教」の解りやすい情報、仏教・お寺を身近に感じる情報などを発信しております。

何かとせわしない春

こんばんは。

 

すっかりと春めいてまいりました。

学院の修了式・仲間の得度式と、何かと忙しくしているお坊さん見習いの「YURYU」です。

無事本科二年に進級も決まり、もっと精進をしなければならないと気持ちを引き締めております。

 

今日は基本中の基本、お念仏につて書かせて頂きたいと思います。

 

お念仏(称名報恩)

「ありがたさとうとさの、弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮には、ただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。 このこころすなわち当流にたつるところの、一念発起平生業成といえる義、これなりとこころうべし」
少し以前の日本の風景を思うと、私どものまわりに、毎日の生活の中でお念仏を称えておられるおじいさん、おばあさんがおられたことを思い出します。
仏さまのお心を、真実を、ありのままに聞かせていただくときに、そのご恩報謝の心が起こり、思わずお称えするお念仏、そのお念仏を口に称えることを称名といいます。
真に仏法をいただくと報恩感謝のお念仏となって「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が私の口から自然に出てくるのです。
そのお念仏、南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀さまからの喚び声として、いつでもどこでも私どもによびかけられています。ですから、いつでもどこでも誰でもがお称えできるお念仏として私どもにお与えいただいています。
阿弥陀さまのお心をいただいたことは、そこにすでに仏さまの願いが成就されており、私の口からでるお念仏がすでに御恩報謝ともなっています。称名がそのまま仏恩報謝のお念仏となっているのです。お念仏を称えられることはまことに尊いことであり、私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。
信心というすがたは名号の体となるもので、さらに言えば、仏さまのお手もとにあるときは本願であり、名号であり、私の心に至って信心となり、口にはお念仏となり、体に現れて合掌礼拝となるのです。
それはすべて南無阿弥陀仏のひとりばたらきなのです。仏さまのみ教えは、私たちがこの身にいただいたとき、はじめて生きた教えとなり、必ずや私たちに生きる力と勇気を与え、そして心の底から悦びに満ちた明るい生活を送ることができるでしょう。

と本山のご案内には記されております。 

(出典:浄土真宗 東本願寺派山東本願寺HP)

 

正に自身教人信の要になる、お念仏の教えであると心得ます。

 

皆さまがよき仏縁に恵まれますように

南無阿弥陀仏

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