在家のお坊さんのつぶやき

在家のお坊さんが、法務や生活体験をもとにしたつぶやき、タイの面白い情報、本山で学んだ「仏教」の解りやすい情報、仏教・お寺を身近に感じる情報などを発信しております。

ブログを再開しようかなぁと思います。

まだ本格的な再開とはいきませんが、徐々に投稿を増やしてゆければと思います。

 

お墓やお葬儀の悩みを抱える方が増えているように感じます。

核家族化が進み、親戚とも疎遠になりがちな現代社会、必ず訪れる後生の一大事にどう対処したらよいのか、近しい人とのコミュニケーションや、お葬儀などのシュミレーションが必要なのではないでしょうか。

 

必ずしもお金をかけるお葬儀が良いとは限りませんし、残された方々が前へ進むための気持ちのこもった葬送が一番ではないでしょうか。

お墓も日々変化しており、百年先のお墓を想像すらできない昨今です。

 

今の方々は墓守は負担になるだろうと、散骨や管理費の要らない永代募を選ぶ傾向がありますが、私見ながら私は、自分の先祖を敬えるお墓なら多少の金銭負担はむしろ歓迎です。

「墓守をしている」と思っていれば負担でしょう。

しかし「墓守をやらせていいただいている」と思えばどうでしょうか?

大した親孝行もできないで後悔をした身ですから、祖先の方(自分の父母など有縁の方々)のためにできる事があるのはありがたい事だと私は考えます。

 

寺院墓地であれば、先々どうしても墓守をする方が絶えてしまったら、「無縁仏」として後の供養はしてもらえます。

母の言葉で、「いずれは皆んな無縁さんだから、墓参したら無縁さんにお参りしなさい」が耳に残っています。

そう考えれば無縁になった途端、一番仲間が多い「無縁仏」になる。

実は「無縁仏」ほどご縁が多い仏様はおられないのではないでしょうか。

 

そう思えば諸行無常の先の事をあれこれ深く考えるより気が楽になります。

 

散る桜、残る桜も散る桜。

 

皆さまが良き仏縁に恵まれます様に。

南無阿彌陀佛

 

 

ブログを再開しようかなぁ

ブログ休止から早三年近くが経っております。

 

最愛の家内を看取り、僧侶としての研鑽を積み、日々を懸命に歩んでおります。

寂しさ、虚しさ、後悔の念、様々な感情が入り混じる心のはたらき。

 

南無阿彌陀佛を称えながら、「また会いましょうね」と家内の遺影を見つめる日々。

私と同じような気持ちを抱きながら、最愛の人との別れをする方々がおられます。

その様な方々に寄り添い、一緒にお念仏の御教えを分かち合える僧侶にならないといけませんね。

 

お念仏は「ありがとう」「またお会いしましょう」の心です。

 

皆様方に良き仏縁が訪れます様に。

何かとせわしない春

こんばんは。

 

すっかりと春めいてまいりました。

学院の修了式・仲間の得度式と、何かと忙しくしているお坊さん見習いの「YURYU」です。

無事本科二年に進級も決まり、もっと精進をしなければならないと気持ちを引き締めております。

 

今日は基本中の基本、お念仏につて書かせて頂きたいと思います。

 

お念仏(称名報恩)

「ありがたさとうとさの、弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮には、ただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。 このこころすなわち当流にたつるところの、一念発起平生業成といえる義、これなりとこころうべし」
少し以前の日本の風景を思うと、私どものまわりに、毎日の生活の中でお念仏を称えておられるおじいさん、おばあさんがおられたことを思い出します。
仏さまのお心を、真実を、ありのままに聞かせていただくときに、そのご恩報謝の心が起こり、思わずお称えするお念仏、そのお念仏を口に称えることを称名といいます。
真に仏法をいただくと報恩感謝のお念仏となって「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が私の口から自然に出てくるのです。
そのお念仏、南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀さまからの喚び声として、いつでもどこでも私どもによびかけられています。ですから、いつでもどこでも誰でもがお称えできるお念仏として私どもにお与えいただいています。
阿弥陀さまのお心をいただいたことは、そこにすでに仏さまの願いが成就されており、私の口からでるお念仏がすでに御恩報謝ともなっています。称名がそのまま仏恩報謝のお念仏となっているのです。お念仏を称えられることはまことに尊いことであり、私の称えたお念仏がまわりの方のお念仏ともなり、ともにお念仏を悦び、互いに敬い、助け合い分かち合う、調和の世界が生まれてくることでしょう。
信心というすがたは名号の体となるもので、さらに言えば、仏さまのお手もとにあるときは本願であり、名号であり、私の心に至って信心となり、口にはお念仏となり、体に現れて合掌礼拝となるのです。
それはすべて南無阿弥陀仏のひとりばたらきなのです。仏さまのみ教えは、私たちがこの身にいただいたとき、はじめて生きた教えとなり、必ずや私たちに生きる力と勇気を与え、そして心の底から悦びに満ちた明るい生活を送ることができるでしょう。

と本山のご案内には記されております。 

(出典:浄土真宗 東本願寺派山東本願寺HP)

 

正に自身教人信の要になる、お念仏の教えであると心得ます。

 

皆さまがよき仏縁に恵まれますように

南無阿弥陀仏

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タイは同朋の詐欺師だらけ

 


こんにちは。

 

学院は春休みですが、有志が集まって行っている声明勉強会は参加している、お坊さん見習いの「YURYU」です。

 

タイでの生活を思い出しながら、日本の生活との違いを紹介しておりますが、本日は日本人を日本人が騙すというお話をさせて頂きます。

 

タイは親日国であり、バンコクなどは日本国バンコク都などと揶揄されるくらい、日本の商品や食が溢れております。

海外に進出している邦人企業も上位に位置しており、日本人が暮らすのには不自由のない環境が整っている国です。

 

しかし昨今、そんな快適なタイで日本人が日本人を騙す、詐欺被害にあう事案が多発しております。

日本人が日本人を騙す詐欺は、昔から後を絶たない事案ですが、最近は手口も巧妙になっており、被害者が多発しているみたいです。

大体は、出資をすれば必ずもうかりますとか、共同で事業を始めましょうとかの手口が多いように思います。

タイは日本人にとって住みやすい国であり、海外移住先として最適ですが、そこに住む日本人が善良であるとは限りません。

もちろん善良な日本人在住者が多いのですが、同じ日本人だからといって信用するのは禁物です。

タイはどんなに親日で、住みやすい国とはいえ外国である事をお忘れ無きよう。

また何の根拠も無く、必ずもうかる商売など存在しないのですから。

実は私も同様の詐欺で、高級ドイツ車1台分を失った経験もあります。

 

自分のみは自分で守る。日本においても同じ事ではありますが、常に警戒を怠ることなく、不用意な信用はしないように心掛けて下さい。

 

本当に住みにくい世の中になったなぁと思ってしまいます。

 

それではまた「サワディ チャオ」

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新たな一年の幕開け

こんばんは。

 

学院が春休みの時こそ、予習をしておかなければならないですいね。

サラブレッドの中に、ロバが一匹と心得ているお坊さん見習い「YURYU」です。

 

最近特に思う事があります。

今の時代は、どの様なお坊さんが求められているのか?

単なる法要・葬儀だけのお坊さんではなく、僧侶としての役割とは何かを自問自答している昨今です。

高齢化社会ですので、葬儀の需要は多いはずですが、費用の負担を重荷に感じている方も多いとお聞きしております。

 

昨今の葬儀事情として、病院から安置施設を経由して、火葬場に直接運んで荼毘に付す「直葬」が増えているそうです。

火葬場では簡単な読経をするだけで、埋葬も合同墓であったり、納骨堂・散骨とお寺を介在しない最後を希望する人が増えております。

もちろん昔ながらの通夜・葬儀をして、菩提寺に埋葬される方も多いのですが、世の中の流れがお寺とは気薄になって来ているように感じます。

 

私の所属している財団法人は、僧侶の方々が理事となって、東南アジアの孤児院・学校の支援をしております。

宗派を超えて、様々な宗派の僧侶の方々が賛同してくれており、本当に意義のある活動だと思います。

実際のお寺(寺院)の活動は、宗派にとらわれてしまうのは仕方が無い事であると理解しておりますが、社会活動でお坊さんが必要とされるのであれば、宗派・宗門には制約されない連携ができても良いのではないでしょうか。

 

時代に取り残される「お寺」、「僧侶」から、時代が必要とする「お寺」、「僧侶」へと変わって行かなければならない岐路に立たされているのではないかと、私自身は危機感を持っております。

 

読経もとても大切ですが、社会が必要とする僧侶とは何かを、もう少し求めても良いのではないでしょうか。

お寺不要論、僧侶不要論という問題を正面から考えてみたいと思います。

 

とはいえ、まだまだ教学・声明の未熟な私ですので、ただただ精進あるのみです。

 

皆さま方が良き仏縁に恵まれますように

南無阿弥陀仏

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短い一年?長い一年?

こんにちは。

 

本山の学院での、怒涛の後期課題・声明考査が昨日終わりました。

多分進級ができるであろうと、勝手に思っているお坊さん見習い「YURYU」です。

 

本当に長いようで短い?短いようで長い一年が終わりました。

本科は二年間の履修ですので、4月からは新たな学期が始まります。

 

この一年を顧みて、本当に情緒不安定な時期もありました。夏の本山合宿から、心が落ち着いてきたように感じます。

七月の得度考査・得度式を経て、学院と仕事の両立をなんとか熟してきた一年です。

一年を経て感じることは、仏教とは本当に懐が広く、奥が果てしなく深いということであったと感じております。

生涯をかけてこの教えと向き合う気構えがないと、これから先は前に進めないような身が引き締まる思いです。

 

知恩報徳

恩を知り徳に報いるという事なのですが、本当に深い言葉です。

報いずにはいられないほどの、そういう恩恵をいただいていることに、気づけるかということも大事になってきます。

仏教の教えの根本には、縁起の道理という真理があります。

簡単にいえば、「人間は一人では生きていけない」という道理がそれです。

両親がいなければ、私という存在はありません。

人は必ず何らかの、因や縁をもって存在しているということです。

最近では縁起というと、良い、悪い、かつぐ等によく使われますが、本当の意味はここにあるのです。

その縁起の道理から考えれば、私の関わるすべてに対して「おかげさま」という気持ちが生まれてこなければならないことに気づかされます。

私の恩師であるH先生のお言葉で、「ありがとう」「もったいない」「おかげさまで」が幸せになる鍵であるとご教授いただきました。

この言葉を実践できる人は、人生において孤独ではありません。

人生とは、懺悔と感謝の連続である。

 

皆さまにも良き仏縁が訪れますように

南無阿弥陀仏

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